「自分の世界」

 お疲れ様です。泉です。陸上とはあまり関係ありませんが最近考えたこと言語化しておきたかったので徒然と書きます。

 突然ですが、僕は昔から、「自分の世界を持っているね。」とか、「周りが見えていないね。」とよく言われます。「周りが見えていない」というのは社会的に問題あり、とも言えますが、今回はそのことについての議論は置いといて、「自分の世界」について考えます。そもそも、「自分の世界」とは何でしょうか?先ほど、自分は「自分の世界を持っているね。」とよく言われる、という話をしましたが、こういう風に言われるのは何も僕だけはありません。僕自身、「あの友人は自分の世界を持っているな~。」と感じたことはありますし、友人が別の友人に向かってそう言っているのを聞いたこともあります。このような友人同士の批評の文脈における「自分の世界を持っている」とは、大抵の場合、「個性が強い」とか、「他の人とは興味の方向が違う」という意味です。ほかの文脈では、例えば、著名な芸術家などは、確固たる「自分の世界」を持っていて、それを作品の中で表現している、と言われます。この文脈における「自分の世界」は、芸術家の「独自の世界観」や「独自の哲学」などといった意味です。二つの文脈における用法の違いについては、あとで考えるとして、まずは共通点について考えましょう。

 それは、当然と言えば当然ですが、どちらも「その人の世界」のほかに「共通の世界」が存在することを前提にしているということです。では、「共通の世界」とは何でしょうか?近い言葉を探すとすれば「常識」や「一般教養」などがあると言えます。(ここで、わざわざ「一般」とつけているのが肝です。)それらの意義は、議論の余地があるかもしれませんが、ここではとりあえず、「人々が協調して生きる社会を作ること。」としておきましょう。それらのおかげで人々は円滑に物事を進めることができ、共感でき、信頼しあえるのです。ところで、「共通の世界」が「共通」であるためには、それを人々に伝える人同士のネットワーク、または媒体が必要です。人同士のネットワークとは詰まるところ「学校」をさします。学校では、「常識」や「一般教養」を教えることによって「標準化」を行います。それ自体は絶対に必要なことです。なぜなら、そもそも、知らない人を信頼して協力する、ということは実は奇跡的なことだからです。ところで、現在の学校、ことに、東北大学に入るような学生を育てるような学校では、このような「必要」な「標準化」以上に、冗長でかつ害悪でしかない「標準化」がなされていることがほとんどです。それは、「共通の価値基準で生徒を評価する」ということです。代表的な例が偏差値です。偏差値、という共通の評価基準によって生徒を相対化して評価します。勉強や学問はそもそも自分のためにやるものであって人と比べるものではないため、人と比べ始めた瞬間に生徒にとっての学問、勉強の意味は変化します。しかも、この偏差値レースを全国の受験生強制参加で行っているのがこの国です。偏差値と学力低下については、内田樹さんが「一億総学力低下時代」という記事で詳しく語っているので読んでみてください。次に、「共通の世界」を形作る媒体について考えましょう。現代は情報社会であり、媒体と、それによって伝達される情報であふれています。ひと昔前までは、テレビ、ラジオ、新聞が媒体の主役でした。それによって得られる情報というのは今と比べるとずっと乏しく、人々が得る情報というのは、今より共通性がずっと高かったのではないでしょうか。しかし、現在はどうでしょう。若者はテレビ離れが進み、新聞をとる人も、ラジオを聴く人も減って、スマホを使うようになりました。人々の取得する情報は増加するとともに、多様化が進み、かつてのような「大きな物語」は崩壊し、「小さな物語」の時代となりました。「小さな物語」の時代となったこと自体は学問にとってはよいことかもしれません。自分のために勉強しやすい世界になるのですから。しかし、残念ながら日本では偏差値レースに参加させられるのでその恩恵は受けずらいです。偏差値レースによって学生の知的好奇心は奪われ、スウェーデンの老人と同じくらいの知的好奇心しか持っていない学生が大学に入学していきます。残念ながら、一度自分だけの目的のために勉強をすることを忘れた人間が、18以上になって、「自分のための勉強」を思い出すのは難しいと思います。また、外部から与えられた評価軸に合わせることに慣れ、さらに、外部から簡単に情報が得られるようになった現代は、内発的知的欲求が生まれずらくなっているきがします。

 少し話がそれてしまいましたが「共通の世界」の議論に戻りましょう。そもそも、僕の思っている「共通の世界」とあなたの思っている「共通の世界」は同じなのでしょうか?国や制度といった社会をなり立たせるのに必要であくまで客観的な存在である「虚構」とは違い、「共通の世界」は、個人の主観が生みだしたものなので人によって異なります。自分は人と同じだ、マジョリティーに属しているんだ、という意識とそうでありたいという欲求が見せている幻にすぎません。ここでまた話はそれますが、チューリングテストというものがあります。このテストでは、判定者が会話をしている相手が機械か人間かを判定するのですが、これは、判定者が人間であるということを前提にしています。では、判定者が人間であるということはどうやって判定すればいいのでしょうか?見た目が同じだからといって、本当に同じ人間なのでしょうか?頭の中まで自分と同じならその人も人間なのでしょうか?では、その人が人間だったとして、自分はその人と同じ人間なのでしょうか?疑問は尽きません。人間が人間であるためには、他者から、できればマジョリティーから、人間である、と認めてもらわなければなりません。この考えはおかしく思われるかも知れませんが、宗教の違いによる戦争の歴史などを振り返れば、重要なことであるように思われます。だから、人間はマジョリティーに属していたいのかもしれません。話を戻します。「共通の世界」は主観的なもので、情報化が進み、「小さな物語」の時代になった昨今では、主観的観測による「共通の世界」は、もはや自分を正当化する道具にすぎず、自分にとって足枷となってしまうものだと思います。これからは「自分の世界」と「相手の世界」が違うであろうことを前提に、対話によって「相手の世界」を知り、肯定まではせずとも、受け入れ、場合によってはすり合わせていく姿勢が大事だと思います。 

 と、ここまでは今までもよく言われてきたことです。ここでの僕の一番の主張は、みんな「自分の世界」を構築していくこうよ、ということです。文部科学省によると、学問の効用は二つあり、一つ目に生活上の便宜と利得の増大、二つ目に、自分を作り上げていくこと、確立していくこと、いわゆるBildungとしての教養であり、このような教養による人間形成を通じての社会の形成、があるんだそうです。ここでは後者に注目しましょう。これは、学問によって、僕のいう「自分の世界」の構築=「自分を作り上げていくこと、確立していくこと」「人間形成」が、成し遂げられることを意味し、そして、それを通じて「社会の形成」がなされるという意味です。先ほど、学問や勉強はそもそも人と比べるものではないと書きましたが、その理由は、人によって人間形成の仕方は違うのだから比べても意味がないし、各々が人間形成を目指せば社会の形成がなされるのだから別に比べる必要はないからです。人と比べるのは、定食に出てきた味噌汁とハンバーグを比べるようなものではないでしょうか。味噌汁がハンバーグと比べて肉汁が少ないからと言って劣等感を感じる必要はないと思います。それよりも、いかに味噌汁としての役割をよく全うできるか考えたほうがいいと思います。そのようにして得られる、自分だけの価値観、評価軸といったことは「美学」という言葉がふさわしいのかもしれません。

 最後に、話を最初まで戻し、友人間の批評で用いられる「自分の世界」と著名な芸術家に用いられる「自分の世界」のニュアンスの違いについて考えましょう。もうこれ以上かくのが面倒なので結論を言うと、友人間のそれより芸術家のほうが「洗練」されているのだと思います。正直、この「洗練」というのが自分でもよくわかりませんが、そこには「美学」があり、教養をBuildingしまくった結果得られるものなんだと思います。「洗練」を極めると人は全体の中の部分でありながら全体となれるそうです。これを成し遂げる人は限られていて、鈴木大拙の言う「霊性の覚醒者」に近い存在のようにも思われます。そういえばこの前見た映画「怪獣の子供」でもそういうことをいってたような気がします。人間は宇宙の一部であり、人間そのものが宇宙でもある、とかなんとか。また、アドラー心理学で有名になったアドラーも「共同体感覚」について語るときに似たようなことを言ったようです。色んなところに近いものがありますね。とにもかくにも、これからは「小さな物語」の中で「自分の世界」をせっせと組み立てて、「美学」を磨いていこうではありませんか。「洗練」を目指すのもよいですが、忘れてはならないのが、そうして形成されたもの(「美学」)が、必ずしも沢山の人に認められる必要はないということです。

 駄文をだらだらと失礼しました。ここまで読んでくれた人に感謝です。最後の方が少し雑ですが、もうねむいので寝ます。またいつかお元気で!

東北大学学友会陸上競技部 競歩パート

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