修了生寄稿 中川

突然ですが、僕の人生のモットーは「特別になりたい」です。この12年間の陸上人生は、特別になりたかったがためにあったのだと思います。
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以下回想
陸上は中学で友達が陸上部に入るからという理由で始めました。県内では1, 2を争う強豪だとは知らず入部し、きつくて毎日家族にやめたいと漏らしていた記憶があります。全然熱意もなくて、メニューが与えられるからただそれをやっているだけの陸上でした。
そんな僕を変えたのが中3の県駅伝。僕の3000mの実力は県内でせいぜい20番目くらいでしたが、区間配置の巡り合わせや当日のレース勘がハマったことで、奇跡的に区間賞を取りました。しかも1区。1区なので1位で帰って来た人が区間賞ですよね。トップで帰ってきたときのあまりの気持ち良さが今でも忘れられません。振り返るとあの時が初めて自分の中で「特別」になれなような瞬間であり、そこからの陸上はずっとこの快をどこかで求めてやってきたように思います。
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高校では、県に満足せず近畿まで行ってやろうと意気込んでいました。彦根東高校は僕らの3個上が県の総体で総合優勝しており、進学校の中では最も陸上が強いと思っていました。陸上のことしか頭になかったので、県トップの進学校である膳所を狙わず、特色選抜で早々に彦根東に決めました。
しかし、高校に入ってから周囲との熱に悩まされました。僕は彦根東高校の陸上は強い、と思っていましたが、それは3年前という時系列にしてきわめて局所的な時期のみであり、大域的には中の上がいいところでした。近畿大会に出場するという目標を掲げていたチームメイトは多かったですが、指示されるメニューや練習の雰囲気から、とても県大会を勝ちあがれる空気は感じれませんでした。当時は陸上で近畿大会に出たい一心で、膳所を蹴ってまで進学したのに、結果を残せずに終わってしまうことをおそろしく惨めにしか感じれなくて、高2から狂ったように練習しました。チームメイトと同じことをしていては勝てない。そう思ってしまい、個人で勝手に朝練をやったり、練習で勝手に距離を増やしたり、この頃の僕は一人で暴走していました。
総体を4ヶ月前に控えた頃に無理がたたってシンスプになりました。全治3ヶ月。近畿に勝ち進まなければ高校生活の価値は塵以下だと思っていた僕にとってこの時期に、しかも初めてのケガでメンタルが相当やられました。そこで勝ち進む最後の選択肢として取ったのが競歩への転向です。その後最後の県総体で3位に入り近畿への勝ち上がりを決め、死ぬほど喜んで、勝ち上がれなかった多くの同期に内心ほくそ笑みました。めちゃくちゃ性格悪い。質は悪いですが、この時も確かに自分は「特別」だと感じられた瞬間のひとつです。
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高校でIHの県予選を突破することを目標とし、それを達成した僕にとっては、大学入学時に陸上部に入る気持ちはありませんでした。
入学当初、初めての一人暮らし、初めての都会に浮かれていた僕は、大学で何か初めてのことをやってみようと息巻いていました。行った新歓は、ボート部、スカッシュサークル、マンドリンサークル、アニメーション研究会、ライフル射撃部。ライフルに至っては一度入部しました(部費払ったのに1週間で辞めた。黒歴史)。そんな風に息巻いていたくせに、見学に行った記録会で入部届も出してないのに補助員をさせられた陸上部に入ってしまうんですから、もう意味がわからないですね。
陸上に未練はなかったのになぜ結局入部したのか?一番大きかった理由は「4ヶ月しかやっていなかった競歩に対する可能性」です。競歩なら地区大会よりもっと上に行けるのではないか?欲が出ました。人間って怖い。
目標を決めました。小目標「日本インカレに出場」中目標「何らかの全国規模の大会で入賞」大目標「打倒山西」。
振り返ってみると中目標までは達成できています。大目標って要するに世界一だったのか。とんでもない目標立ててたんだなぁ。この目標を立てた当時の彼の自己記録(5000mW 20'16"00)を抜くところまではいけたので、そこは評価したい。
大学で陸上を続けたことで、僕は高校まででは全く知らなかった陸上の世界を知ることができました。県総体で勝つことを考えていたような人間が、日本インカレを経験し、国体で県の代表選手になり、全日本で入賞し、県記録まで作れました。高校時代に表彰はたった一度しか経験がなかったのに、大学では何度もあの台の上に立てました。
同時に、知ることで辛い思いをする部分もありました。全国レベルの選手たちの中には自分よりもずっと陸上に懸けているような選手がたくさんいて、その思いの強さと自分の中途半端な競技への取り組みにギャップを感じることがありました。競歩という狭い世界で世界レベルの選手と繋がる中で、自分には到達できない領域をまざまざと見せつけられることがありました。ちょっと結果が出たことで欲が出てしまい、一流選手に尊敬ではなく嫉妬するような時期もありました。
こんな経験は、きっと競歩でしかできなかったと思います。陸上の楽しいところも、辛いところも、味わい尽くしました。
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特別、という定義はきわめて曖昧ですが、咀嚼すると「自分にしかできない何かを持つ存在」というのが近しいです。この言葉には出典があって、武田綾乃先生原作の吹奏楽部を舞台とした作品『響け!ユーフォニアム』の準主人公である高坂麗奈が、主人公の黄前久美子に放った一言です。
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以下引用
麗奈「私、興味ない人とは無理に仲良くなろうと思わない。誰かと同じで安心するなんて、馬鹿げてる。当たり前に出来上がっている人の流れに、抵抗したいの。全部は難しいけど、でもわかるでしょ?そういう、意味不明な気持ち。」
 
麗奈「私、特別になりたいの。他の奴らと、同じになりたくない。だから私は、トランペットをやってる。特別になるために。」
 
久美子「トランペットやったら、特別になれるの?」
麗奈「なれる。 もっと練習してもっと上手くなれば、もっと特別になれる。 自分が特別だと思ってるだけのやつじゃない。本物の特別になる」
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僕はこの作品に出会った当時、大学2年生で、伸び盛りの時期でした。高校時代5000mW22分台だった自己ベストを20'43まで押し上げ、10000mWでは1年次の45'55から42'36まで更新して初めて日本インカレの出場を決めた頃でした。この年に国体にも選ばれました。2年生の後半では20kmWでも自己ベストを5分伸ばしました。そうした中でこの台詞に出会って、恐ろしいくらいに共感できた時に、自分の持っている気持ちに気付きました。陸上でなら、競歩でならもっと特別になれるかもしれない、と思っている自分に。今までもずっと特別になりたくて陸上をやっていた自分に。
誰しも大なり小なり持っている感情だと思います。別に大二のPBラッシュが始まりというわけではなかったのでしょう。中学時代に県駅伝で区間賞を取った時だって、県内で6人しかもらえない区間賞を手に入れたから。高校で近畿大会出場に固執したことだって、県大会で敗れる有象無象の域を出て、高次の競技力を持てたことを誇示し、チームメイトの中で特別になりたかったから。競技力が上がるにつれてそのレベルが研ぎ澄まされただけのことであって、僕の思想の根源はずっと前からこの「特別になりたい」という台詞一つに集約しているように思います。ただ、それに気付かされたのは『響け!ユーフォニアム』という作品との出会いもそうですが、これだけ一つのスポーツをしぶとく続けて、あと数段というところまでトップ層が見えてきて、本気で特別になりたいと思えた瞬間があったからです。
大学陸上を通じてこの「特別になりたい」という感情に気づけたこと、その感情を高いレベルで味わえたことこそが、最大の財産です。
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とどのつまり、この寄稿を通して伝えたかったことは、特別になろうとすることの尊さです。自己ベストを出して過去最高の自分になったとき。他でもない自分が誰よりも前でゴールしたとき。チームメイトから祝福されたとき。どうしようもなく気持ちいいです。これらは、大なり小なり特別の一種です。でも、その特別さを追究することには終わりがありません。世界一になった例の彼ですら、その先を見ているくらいです。突き詰めると自己満足なのかもしれません。特別の線引きだって、世界一じゃなくても、部内で一番とかでもいいわけです。高尚なものに見えて、本質は曖昧でよくわかりません。でも、特別になろうとする行為そのものは確かに原動力になります。スポーツを競技として取り組む人間として、このメンタルだけは持ち合わせていてほしいと、僕は思います。
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ここまで頑張って書きましたが、自分でも何を言ってるかそろそろわからなくなってきました。そこで、良くわからなかった、という人に、この内容を手っ取り早く、的確に知る方法があります。それは『響け!ユーフォニアム』を履修することです(突然のステマ)。僕が12年間の競技で感じたもののほとんどは『響け!ユーフォニアム』に詰まっています。小説でもアニメでも目を通してみてください。
以上。

東北大学学友会陸上競技部 競歩パート

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